撮影:羽鳥直志
 映像時代のヒューマニズム

 ジョナス・メカスの新作・日本未公開作品上映と講演会
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アメリカ実験映画を代表するリトアニア出身の詩人、映像作家ジョナス・メカスの3度目の 来日に合わせ、<映像時代のヒューマニズム>をテーマに開催した、新作・日本未公開 作品の上映と講演会である。

<日記映画>と呼ばれるメカスの作品は、様々な人間や事物、 風景に向けられた彼の温かな眼差しが、映像として具現化されている。 この催しでは、作家本人を迎え、彼の表現を通して、20世紀を生きる我々にとっての 新しいヒューマニズムについて考察する機会となることを意図していた。

ともすれば難解と呼ばれる<実験映画>のジャンルに属するメカスの作品であるが、 訪れた観客が皆熱心に鑑賞する姿は印象的であった。講演会では、聞き手である 今福龍太の好リードにより打ち解けた雰囲気が生まれ、引き続き観客との密度のある 質疑応答が行われていった。
メカスの作品とともにその温かみのある人柄、 豊かな人間性に触れる機会となったこの企画は、会場に親密な空気をたたえつつ終了した。

当センターで開催した特集上映会などを含む、この地域での継続的な上映の機会が、 彼の作品と芸術を地道に紹介してゆくことになり、今回の結果につながったと いえるだろう。
(越後谷卓司)
1996年4月4日
アートスペースA

講師: ジョナス・メカス
聞き手: 今福龍太

<上映作品>
「メルブルックヘの旅」(1967)
「不完全な三つのイメージ」(1995)
「ジョン・レノン、お誕生日おめでとう」(1972-96)
「ゼフィーロ・トルナー、あるいはジョージ・
  マチューナスの人生からの光景」(1991)
「フジヤマヘの道すがら、私が見た…」(1996)


1991年来日時 撮影:鈴木志郎康

AAC17 (96.8)
「映像時代のヒューマニズム」  対談: ジョナス・メカス×今福龍太より抜粋

今福: 僕はいつも思うんですが、メカスさんの映画に出てくる食べ物や飲み物は、 もう本当においしそうに見える。味覚や嗅覚に訴えて、食べ物の匂いがプンプンするんです。
一般的に映像は目という肉体器官を使って撮ると思われているのですが、 それ以外の感覚、つまり味覚、嗅覚、もっとデリケートな身体感覚……そういうものと メカスさんにとってのフィルムとはどういう関係にあるのでしょうか。

メカス: 目でみたものをカメラを使って撮影するのですが、ただ目だけではなく、 頭も、心も、細胞の一つ一つ、体の全てを使って撮影しています。 それに加えて、私の記憶の全て、"忘れること"の全ても撮影には関わっています。 それから、撮影をする瞬間は非常に凝縮された瞬間であると同時にすっかりリラックス した状態でもあります。

今福: 写真とか映像というのは、常に、記憶のための手段として様々に 利用されてしまう。
メカスさんの映画も表面的に見てしまうとこれは一つの個人的な ノスタルジックな過去の追憶のような記憶、ロマンティックな動機に基づいている様に 見えるのですが、お話をしていてどうもそうじゃないように感じるんです。
実はむしろ忘却、忘れ去られるものとか、忘れ去られたものがそこに写し出されている。 メカスさんは記憶よりは忘却、忘れるということによりある種の親近感を感じている ような気がするんですが……。

メカス: 私は本当に自分が好きなものを撮影するようにしています。 私にはなぜ自分は撮影するのかということはあっても、なぜそれを撮るかは 分からないんです。私の撮り方というのはもっと直観的、本能的、その場のものに 合わせて瞬間的に反応して撮っていますから、記憶とかを特に考えて撮影することは あまりありません。
ピエーロ・デラ・フランチェースカが天使の絵を描いていますが、 本当はこの天使の美しい顔というのは百年戦争のまっただ中の実に悲惨な時代に 描かれたものなんです。ですから現実とはまるで違い、フランチェースカは人々に 対してこの本当に惨めな現実は人間性の本来の姿ではなくて、この天使のような 素晴らしいものがありえるんだということを、その自分の夢をそこに投影して 描いたのではないだろうか。
だから必ずしも、この場合には絵画ですけれども、 映画を作るにしろ、音楽を作るにしろ、現実との何かしら具体的なつながりが 必ずあるわけでもなくて、様々な要素が創作に向かわせることがあるのではないでしょうか。 ですからフランチェースカは決して現在とか過去ではなくて未来を描いたのでしょう。
Photo : 南部辰雄

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