自主事業:普及啓発
鑑賞&レビュー講座2024
~ステップアップ・プログラム~
レビューとは何か、舞台芸術を言葉で紡ぐことはどういうことは...?
愛知県芸術劇場の鑑賞&レビュー講座では、毎年レビューを書くための知識を学ぶ講座を行い、修了生のためのステップアッププログラムを用意しています。ステップアッププログラムは、レビュー対象公演の中から希望公演を鑑賞、レビュー執筆。その後アドバイザーのアドバイスを参考にしながらレビューを完成させ、ウェブサイトへの掲載を行う実践的・本格的なプログラムです。
レビューも舞台と客席とのコミュニケーションの形です。'あなたらしい'レビューの執筆を目指しませんか?
※初心者対象の講座「ベーシック編」は2025年1月以降に開催予定です。
鑑賞&レビュ−講座2024〜ステップ・アッププログラム〜参加者による公演レビュー作品を掲載しました(2025/8/21):
詳細は以下の「レビュー」よりご覧ください。
概要
講座内容 |
ステップ1:課題公演(NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)プレミアム・ジャパン・ツアー2024を鑑賞し、800文字程度のレビューを執筆して応募してください。(応募者多数の場合、選考になる場合があります。)
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アドバイザー |
岡見さえ(舞踊評論家、共立女子大学准教授) 東京を拠点として、2003年より『ダンスマガジン』(新書館)、産経新聞、朝日新聞、読売新聞等に舞踊公演評を執筆。 舞踊に関する仏語翻訳、フランス語圏のダンスのリサーチも行う。JaDaFo(日本ダンスフォーラム)メンバー、2017年より横浜ダンスコレクションコンペティションⅠ審査員を務める。 |
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鑑賞対象公演 |
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参加対象・条件 |
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参加料 | 一般 15,000円 35歳以下 10,000円 ※★公演の公演鑑賞チケット料含む。 ※35歳以下料金は2024年9月8日に35歳以下の方が対象 ※参加料はキックオフ講座でお支払いいただきます。 |
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申込方法 |
NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)プレミアム・ジャパン・ツアー2024 (6月30日 高崎芸術劇場 7月5日・6日 神奈川県民ホール 7月12日(土)・13日(日)愛知県芸術劇場)を鑑賞し、7月31日までに800文字程度のレビューを添えてお申込みください。 件名:「鑑賞&レビュー講座2024 申し込み」 ①お申込み者名 メール ws6△aaf.or.jp(「△」を「@」に置き換えてください。) ※NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)プレミアム・ジャパン・ツアー2024の鑑賞チケットはご自身でのご手配をお願いします。 |
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講座の流れ |
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応募締切 |
7月31日(水) |
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主 催 | 愛知県芸術劇場 | ||||||||
助 成 | ![]() 独立行政法人日本芸術文化振興会 |
レビュー
本講座の参加者による公演レビュー作品
本講座では、対象公演である
「Footnote NZ Dance x 山崎広太 協働ダンスプロジェクト 『薄い紙、自律のシナプス、遊牧民、トーキョー(する)』」(10/5.6)
「余越保子/愛知県芸術劇場 『リンチ(戯曲)』(10/25〜27)」
「サーカス・シルクール『ニッティング・ピース』(11/26)」を参加者が鑑賞し、それぞれのレビューを書きました。
山口イズミ
「都市空間を駆け巡る、身体×言葉のエクスペリメント」
「シャツを洗濯してベランダに干しました」「『ホームランバー』アイスクリームは日によって溶け方が違うんです」「シャンプーとリンスには温度差があるんです」「濡れた洗濯物を抱える感覚が好きなんです」…。
生活感覚に密着したモノローグと共に、山崎広太が舞台上で小刻みにナーバスな身体運動を繰り広げると、観る者たちも次第に自らの皮膚感覚に意識が向かっていく。床に張り巡らされたプラスチックシートが、パチパチと裸足のダンサーの足音に交わる。
本作は、ニューヨークを拠点に活躍する振付家の山﨑と、ニュージーランドのカンパニーとのコラボレーションによる新作だ。ニュージーランドは、コンテンポラリーダンスの新しい潮流を感じさせる国のひとつで、マオリ族の文化も継承した土俗的な香り漂う身体表現が大自然の息吹をもたらす。この作品のテーマは「脱身体化と超身体化」だと山崎は言う。何かと何かのあいだの、ポジティブあるいはネガティブな二律背反の不安定な空間を、FootnoteNZ Danceの若いダンサーたちが表現した。
山崎のソロパフォーマンスからなるプロローグに続き、第一部「薄い紙」では、カラフルな衣装を身につけた5人のダンサーたちが山崎の動きの断片を拾い、おまじないのようにセリフを唱えながら、自らの身体を見つけようと動き回る。肩、蜃気楼、脇腹、氷砂糖、爪先、豆腐、骨盤……といった言葉が舞い、彼らはそれぞれの「私」という動機、触覚、意思を捜し求める。さらにオノマトぺが加わり、高速な動きとともにダンサーたちの脳と身体のあいだで、意識・無意識のうちにさまざまな情報が行き来する。
シナプスとは脳内で神経細胞(ニューロン)をつなぐ接合部である。ニューロンからはフワッとした触手のような突起が伸び、そこから別のニューロンに情報を受け渡す。この接合部には極小の隙間が空いている。薄紙一枚。ダンサーたちは踊ることで自らと触れるモノや他者を認識し、脱身体化していくのだ。自己の皮膚を通して得るソマティックな感覚が自身の存在や他者との関係性をとらえ直し、脳内で再構築する。
第二部「霧」ではモノトーンの世界に切り替わり、同じ5人が東洋的な鐘の音と波打つ水の音に連れて、時間と空間を彷徨うように踊っていた。最後のシーンで舞台中央に蛇がとぐろを巻くように体を丸めた女性ダンサーは、自らの身体が床に支えられた「物体」だと気づく。いや、思考の脱身体化と超身体化を経て彼女は実際にそのような物体になったのだ。ダンサーの身体の内と外をめぐる、この「なる」という65分間の凄まじいプロセスを目撃した観客も、自身の物体性に目覚める。
では「遊牧民、トーキョーする」とは何だったのか。私たちの意識は遊牧的だ。どこへでも行けるし、自由に彷徨える。しかし、その身体はどこかに定住して、国家のような枠組みのなかで生きることを余儀なくされている。ただトーキョーのような巨大都市なら、アートを体感することで意識の遊牧性を保持し、自在に境界を越えられるはずだと言いたかったのではないか。そう考えれば、本作は山崎とFootnoteNZ Danceからの“ステーショナリー・ノマド(定住的遊牧)”への誘いなのかもしれない。
10月5日、愛知県芸術劇場小ホールで鑑賞
©Naoshi Hatori
横井ゆきえ
「身体が纏う文化の景色 ―山崎広太とFootnoteの邂逅―」
本作品はニュージーランドの国立ダンスカンパニーFootnote New Zealand Danceと、 90年代に日本のコンテンポラリーダンスを牽引し、現在は活動拠点をニューヨークに移して活動する山崎広太との協働プロジェクトである。振付も担当する山崎広太に加え、Footnote New Zealand Danceから、セシリア・ウィルコクス、ベロニカ・チャングリュー、松田ジャマイマ、松田憧祈、リーバイ・シャオシの5名の若手ダンサーが参加している。世界初演となる本作品を2024年10月5日6日の公演を愛知県芸術劇場小ホールにて鑑賞した。
舞台に浮遊する半透明の薄い紙。その下で言葉と身体が躍動する。ダンス公演だが多くの言葉が用いられ、演劇的な要素も盛り込まれている。作中使用テキストは会場で配布されるが、すべての言葉をリアルタイムで理解する必要はなさそうだ。作品の中で言葉と身体は異なるレイヤーで進行しており、言葉の意味と動きが一対ではない。このような言葉に消費されないムーブメントは、いわば「脱身体的なムーブメント」である。これこそが山崎が未来のダンスに向けての発見だったと語る「言葉と身体による新しいダンス言語」なのだ。
本作品は2つのメインパートで構成されている。
「PART1 Thin Paper(薄い紙)」ではオノマトペが多用され、浮かんでは消える断片的でポエティックな言葉や変則的な動きには刹那性が強く意識される。ダンサーの身体と床が接するたび、床に貼られた透明な薄い膜が不規則にパチパチと僅かな音をもたらし、体内で絶えず神経伝達物質をやり取りするシナプスを思わせる。ダンサーたちの軌道は無数の足跡を床にとどめ、音や物質が絶えず移動を続けとどまることはないことを暗示するようだ。
「PART2 Fog(霧)」はニュージーランドの自然を思わせる穏やかな波音、激しい雷鳴、吹き抜ける風に、広大な大地を駆けめぐる先住民マオリ族の文化の香りがする。
山崎の振付はダンサーの個性を見出し、個々の特性を際立たせる。一方でアンサンブルとしてのグルーブ感も加速し舞台は美しい熱気に包まれる。
作品の冒頭で、山崎が都会の喧騒に溶け込んで一人踊る。その動きは、Footnoteメンバーとは根本的に違う空気を感じた。山崎のダンスは手足を大きく使わず細かく繊細に動きながらも、その動きの連なりは予測不可能で複雑だ。雑多な都会のエネルギーを表現するかのように、緻密でありながらもとらえどころがない。一方、Footnoteメンバーの踊りには、自然の躍動感がある。のびやかでダイナミック、跳躍力に満ちた動きは、若々しい肉体ならではのものかもしれない。山崎の踊りと比較することで身体が纏った文化の景色の違いが浮かび上がったことは新しい発見だった。
本公演は日本を皮切りに、ニュージーランドとアメリカでのツアーが予定されている。異なる文化圏の人々はこの作品をどう受け取るのだろう。その土地ごとの歴史や民族性との対話を経て、さらに進化していくことを期待したい。
10月5日、6日、愛知県芸術劇場小ホールで鑑賞
©Naoshi Hatori
余越保子/愛知県芸術劇場 『リンチ(戯曲)』
10月25日(金)~27日(日)京都芸術センター 講堂
山口イズミ
「近代国家による私刑、抗うは生身のパッション」
「KYOTO EXPERIMENT 2024」最終日、余越保子/愛知県芸術劇場『リンチ(戯曲)』が上演された。原作の戯曲は、同劇場が主催するAAF戯曲賞第20回(2021年)で大賞を受賞した羽鳥ヨダ嘉郎によるもので「あなたにみられている必要はない。耳の頭の上が平面につく」というト書きで始まり、読み手の“わからなさ”を直撃した問題作である。舞台上では、人間の臓器や穴、皮膚に刺さったチューブなどが描写され、ダンサーたちが主語・述語を入れ替えながら、生々しい身体感覚を記譜していった。太平洋戦争期にまつわる多くの参考文献を掲げ、日本の近現代史の支配構造に想いを寄せた原作に対し、余越は、どこか不条理に囚われた硬直感を、時間を超越したダンスという方法によって表現したようだ。
余越とともに振付・パフォーマンスに参加したのは、トーゴ出身のアラン・シナンジャ、舞踏や世界のストリートカルチャーなどの影響を受けた垣尾優、”結合する身体”をモチーフに踊る小松菜々子だ。
冒頭、ホールの薄黄色い電灯の下で、大きなプラスチックの袋から、赤子と胎盤を思わせるぬいぐるみや点滴などが取り出され、キッチュな不気味さを漂わせた。神楽のような音楽と宇宙的な電子音とともに、緑色のゴム手袋をした小松が「倫理という普遍的なものでさえ、境界線を引かなければならない」との言葉を発し、「屠殺されるところを見た家畜を食べられるか」と問いかける。モノの見え方や正しさは人によって違うのだと合点がいく。
死体について語られ、水が流れ、スライムが揺れ、スモークが焚かれる。シナンジャは母国の言葉、フランス語、英語、堪能な日本語を交え、日本という国を外側から見つめ、内側から語る。彼が日本にやってきたときの体験と、日本の近代化が重ねられ、それぞれのヒストリーが、濃密でエネルギッシュなパフォーマンスと絡み合う。即興のセリフや動きが、観客とのあいだに新たな身体感覚を生み出していく。初めは自身と無関係と思われた不条理な世界が、声と身体を媒介として観客の身体感覚と共鳴し、見る者それぞれが舞台上の出来事をいつしか自身の一部として受けとめるようになる。深い精神性を湛える三者三様の祈り、小松が唱えるアンジェルスの晩鐘の祈りとシナンジャのコーラン、垣尾の百姓の歌の重唱が、筆者の身体にも沁みわたった。
京都芸術センターという昭和初期モダン建築のホールでの上演は、一般的な劇場公演とはかなり趣を異にしていた。ここは1869年に開校した明倫小学校の跡地。さらに遡れば江戸時代中期の思想家・石田梅岩が創設した「石門心学」の道場であり、人の心や性(しょう)を身分の別なくとらえ、天の下の世を平たく見ようとした彼の思想が漂っているのだ。偶然とはいえこの地で、日本の行く末を問う国政選挙の日に本作が上演された。それは日本が近代化とともに手にしたものと見失ったものを想起させ、アングロサクソン的な資本主義の猛威にさらされ足元を掬われそうになっている私たちに、何かを示唆するような気がした
10月27日、京都芸術センターにて観賞
サーカス・シルクール『ニッティング・ピース』
11月26日(火)愛知県芸術劇場 大ホール
横井ゆきえ
「編むことは祈ること ―サーカス・シルクールの平和への問いかけ―」
サーカス・シルクールはスウェーデンのストックホルムを拠点に活動を行う現代サーカスカンパニーである。ティルダ・ビョルフォシュの演出・コンセプトによる『ニッティング・ピース』 は2013年の初演以来14か国63都市で上演されてきた人気作だ。今回はカンパニーにとって6年ぶりの来日公演となり、全国5都市で公演が行われた。会場ロビーには世界各国のワークショップで編まれたニットが飾られており、この作品が多くの人々に愛されてきたことが分かる。
作品の中で「糸」はいくつもの役割を果たしている。まず舞台美術として、ステージには白を基調とした無数の糸やロープが張り巡らされ、幻想的な空間が広がっている。アクセントとして登場する赤は血や情熱、命を思わせる。そして、綱渡りや大車輪など様々なパフォーマンスの道具としても機能している。サーカス・アーティストたちは肉体の限界に挑み、不可能を可能にする技を次々と披露していく。不安定なロープを使ったパフォーマンスは技の成功を固唾をのんで見守る観客との一体感を生み、サーカスの醍醐味を十分に味わわせてくれた。
しかしそれだけではない、このパフォーマンスで「糸」は目に見えない概念を可視化するのだ。冒頭で少女が編む糸は次第に天使の羽に見えてきたり、中盤で4人のパフォーマーがゴンドラの上で規則正しく編む糸は籠になったりする。ほどいてしまえばまた一瞬で糸に戻る儚いものかもしれない。しかしながら、糸を編む過程で優しく命を包み、遠くへ渡るための翼になる様子が可視化される。編むという行為は祈りに似ている。両手を胸の前で動かしながら糸を交差させていく姿は、どこか祈る仕草にも通じる。また仕上がりを思い描きながら糸を形にしていく過程には、願いを込める祈りのような想いが宿る。ビョルフォシュの言葉を借りれば「編み物をしている間は、武器を手にすることもできない」のである。 一方、同じ糸が体にまとわりついて自由を拘束する鎖にもなったり、無秩序な塊として投げつけることで暴力にもなる。平和も争いも、同じ糸で表現しうることが興味深かった。
サーカス・パフォーマーによってライブ演奏されるオリジナルの音楽もサーカス・シルクールの魅力だ。息をのむパフォーマンスの興奮が、美しくもどこかダークで哀愁を帯びた音楽に包まれ、さらに高まっていく。時に緊張感や疾走感をあおり、時にゆったりとした旋律で余韻を生む音楽が、場面ごとのテーマを際立たせ、観客の心を深く揺さぶった。エンターテインメントとしての楽しさに加え、芸術性の高さも際立っていた。
「平和を編むことは可能か?」というこの作品のテーマは、争いの絶えない現実世界の状況を思えば無力感すら感じる問いである。しかし、作品を通じてその問いかけは強い希望に変わった。ラストシーンでは、パフォーマーたちが舞台から観客へとニットを手渡す。長く編まれたニットは、客席の中を次々と手渡されていき、会場全体を優しくつなぐ。その瞬間、編まれた糸は単なる布ではなく、想いのこもったメッセージとして観客に届く。「触れることのできる祈り」となったニットは、世界中を旅してきたパフォーマーからの贈り物であり、私たちに何を受け継ぎ、どのように紡いでいくのかを問いかけていた。
11月26日 愛知県芸術劇場大ホールにて鑑賞
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