自主事業:普及啓発

鑑賞&レビュー講座2020【後期 ~ミニセレ・実践編~】

「1.鑑賞して、考える」、「2.言葉にしてみる」、「3.読みあい、推敲する」 鑑賞と講座を交互に繰り返して、1~3のプロセスを実践します。

参加者による公演レビュー掲載のお知らせ(2021/3/31)
「関連ニュース」に、本講座の参加者による公演レビューを掲載しました。

 

応募期間延長のお知らせ(2020/9/16)
定員に余裕があるため、応募期間を延長いたします。※定員になり次第、 締め切りとさせていただきます。

鑑賞対象公演
開催日時

◆ミニゼミ
10月3日(土)「ダンス・セレクション」公演鑑賞後
※詳細は参加者に後日ご連絡します。

オンラインゼミ
10月15日(木)20:00~21:00
11月26日(木)20:00~21:00
12月24日(木)20:00~21:00

振り返り会
2021年2月中旬(予定)

「鑑賞&レビュー講座2019」参加者による公演レビューはこちら
ナビゲーター

竹田 真理(ダンス批評家)

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ダンス批評。関西に拠点を置きコンテンポラリーダンスを中心に取材・執筆活動を行う。毎日新聞大阪本社版、「ダンスワーク」「シアターアーツ」「ダンサート」等の舞台芸術専門紙誌、ウェブ媒体、公演パンフレット等に記事や批評を寄稿。ダンス史およびダンス批評に関するレクチャー講師、トーク司会等も務める。国際演劇評論家協会会員。

ゲスト

萩原雄太(演出家・ライター)
※11月26日のみ参加

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劇団「かもめマシーン」主宰。愛知県文化振興事業団が主催する「第13回AAF戯曲賞」優秀賞、「利賀演劇人コンクール2016」優秀演出家賞受賞。2018年、ベルリンで開催された「Teheatre treffen International Forum」に参加。代表作に『福島でゴドーを待ちながら』『俺が代』『しあわせな日々(作:サミュエル・ベケット)』など。ライターとしてはCINRA.NET、美術手帖、Festival/Tokyo、サイゾーなど掲載媒体は多岐に渡る。

参加費

一般 8,500円 35歳以下 7,000円 25歳以下 4,500円

※対象公演(3公演)のチケット料金を含む

参加条件

対象となる公演を全て鑑賞し、オンライン講座に参加できる方

オンライン講座は「Zoom」を利用して開催します。

※パソコン・スマートフォン・タブレット等の端末とインターネット接続環境が必要です。
※各講座開催日の前日に、メールにて【オンライン・ゼミ】のURLをお知らせします。

募集人数

5名程度

※応募者多数の場合、選考を行います。

申込方法

メール ws6@aaf.or.jp

件名:「鑑賞&レビュー講座2020~後期・実践編~」 申込み

①お名前(ふりがな) ②連絡先(メールアドレス、電話番号) ③年齢 ④参加動機 ⑤ご自身が書いた舞台芸術または美術・映画等についてのレビュー(400文字~800文字程度/SNS等で既に発表済みの物でも可) をご記入の上お申し込みください。

※お預かりした個人情報は、愛知県芸術劇場[(公財)愛知県文化振興事業団]にて厳重に管理し、本事業を運営するために使用し、それ以外に使用しません。

締 切

9月15日(火)

定員に余裕があるため、応募期間を延長いたします。
※定員になり次第、 締め切りとさせていただきます。

主 催 愛知県芸術劇場
助 成 文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)| 独立行政法人日本芸術文化振興会

本講座の参加者による公演レビュー作品

本講座では、対象公演である「『ダンス・セレクション』(10/3)、「第18回AAF戯曲賞受賞記念公演『朽ちた蔓延る』(11/7・8・9)、 勅使川原三郎芸術監督就任記念シリーズ『調べ―笙とダンスによる』(12/4・5・6)を参加者が鑑賞し、それぞれのレビューを書きました。

以下の作品は、上記のレビューを参加者お互いが読み合う「オンラインゼミ」を経て、完成させた作品です。

「調べ -笙とダンスによる」鑑賞レビュー

響きあう呼吸たち

峰岸優香

 波が広がるように明るくなる舞台。暗闇の一番奥から、二つの掌が差し出される。たったそれだけの動作が目に焼き付く、鮮烈な幕開けだった。暗闇から浮かびあがった、緊張と弛緩をまとった勅使川原の身体は、光のなかに舞い降りた仏のようである。まるで深い水底にいるかのように重たく、時に激しく繰り広げられる二人の舞い。独特な笙の響きが満ちる空間は、現実の時間とは違う流れがあるようだった。

 本作「調べ-笙とダンスによる」は、勅使川原三郎が愛知県芸術劇場の芸術監督に就任したことを記念するシリーズの第2弾である。勅使川原とともに活動する佐東利穂子、東洋の伝統楽器である笙の演奏家である宮田まゆみが出演する、2018年に東京で初演された作品の再演だ。

 笙の響き、2人のダンサー、黒い舞台とミニマルな照明によって、約1時間のパフォーマンスが展開される。黒くシンプルな衣装を纏った動作は滑らかで、円弧を描くような手足の動きがそれぞれの曲目で繰り返される。すり足で低く保たれる重心と、たゆたうような背中と両腕の動き。地をまさぐるような表現には、古武術のような力強さと、繊細なしなやかさが共存している。2つの身体は静と動を送り合いながら、複雑なハーモニーを展開する。

 勅使川原と佐東は、同調した振付を交えながらも、時に異なる音楽の解釈をしているように見えた。演奏家と2人のダンサーは、いったい何を共有していたのだろう?身体に影響を及ぼす音の違いは、この舞台により深みを与えていたように思う。
 特に中盤、激しいつむじ風のように交わる「迦陵頻急」からはじまる勅使川原と佐東対比が印象的だ。勅使川原は水を掬うような重厚な動作を繰り返し、佐東線香花火が咲き乱れるように激しく瞬く。佐東は音に突き動かされるように全身を震わせ、体の外にあるものを追い求めるように、手をのばすことをやめない。同様に激しく動きながらも、重心を地に据え続ける勅使川原。笙の響きと重なりあいながら、両者はまったく異なる展開で終局を迎えていく。

 会場で配られたパンフレットによると、宮田が作中で演奏する「調子」とは、「場を整える」目的のために、舞楽の入退場や前奏のように演奏される音楽を指しているそうだ。それ自体が主役の曲ではなく、奏者や会場に安定を与える役割ということだろうか。また、曲目として記された八項目のうち、始めと終わりの曲目には「沈黙」、二曲目と七曲目は「音の響き」と記されている。
 「場を整える」ための音楽、沈黙、響き。ここからもう一度音楽とダンスの関係を想像しなおしてみよう。勅使川原は「演奏家の呼吸がそのまま音楽になり/踊る者の呼吸がそのまま踊りになる」という言葉を寄せている。一般的に「呼吸を合わせる」とは、初めの拍を揃えることだが、この公演で起こっていたのは、霧散する響きのなかで、三者がそれぞれの呼吸を展開していくような試みだったのかもしれない。笙の演奏方法でもある、吸うことと吐くこと。その繰り返しを奏者と舞踊家が互いに慮りあいながら、自分の呼吸と重ね、次の動きへとつなげていく、そんな体の最奥から交信するような時間が繰りひろげられていたのではないか。

 終盤、舞台上には3本の細い明かりが差し込み、演奏を続ける宮田と、中央に立つ勅使川原、倒れ込む佐東が照らし出された。3者の光が交わることはないが、だからこそより強く、3者が同じ空間のなかで、同じ音の響きに包まれていたことを思い返す終幕であった。

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©Naoshi Hatori

「調べ -笙とダンスによる」鑑賞レビュー

太古へと舞い戻る儀式

德丸魁人

 舞踊家の勅使川原三郎と佐東利穂子、そして笙の演奏家宮田まゆみによって上演された作品 『調べ笙とダンスによる』。虚無と静寂を下地に、笙の和音と交錯する2 人のダンスが調和し、一種神秘的な空 間がつくられていく。この 3 人の「呼吸家」たちは、なぜこんなにも荘厳に映るのだろう。太古から連綿と紡がれてきた祈りの儀式のような光景に、精神が飲み込まれていくような体験だった。

開演前、80 年代のアメリカを思わせるポップスが響く場内。音楽が止む。厳格なアナウンス。上演に向けて沈黙と静謐が空間を覆っていき、やがて幕が開く。されど暗闇だ。そこへ徐々に光が差し込まれていき、笙を擁する宮田まゆみが舞台下手に座しているのが認められた。それ以外に物体は無く、真っ黒な素舞台が眼前に広がっている。照明は等間隔で配置され、小さな太陽のように輝く。 まるで「劇場」という概念を正確に具現化させたような、無垢な空間が用意されていた。

そこへ笙の音が吹き込まれる。静寂を起点として徐々に音が聴こえ始め、やがて空間全体へ響き渡り、消えていく。大地を吹き抜ける風がそのまま音になったようだ。鳳凰の姿を模して作られたという笙。その音を聴くと、記憶の中の何かが呼び覚まされる感覚を覚えるのはなぜだろう。視覚的には黒いだけの無垢な舞台上に、神秘的な空気が充填されていく。
神秘の気配で満たされた空間に真っ黒な衣装に身を包んだ勅使川原と佐東。風に乗る葉のように自由に舞う。大きな螺旋をいくつも描きながら、等速でとめどなく身体をひねり続ける姿は、何かが健全に、自然に機能しているようだった。呼吸のように、身体中を血液が巡るように、当たり前に身体が動き続けている。笙で演奏されたのは合計 8 曲。曲目が変わるごとにダンサーには静止が訪れ、かと思えば激しさを増し、変化を繰り返し、空間が換気されていく。調和し、互いに阻害せず、あまりに滑らかに変わっていく。目で見て、耳で聴いてというよりは、窓を開けて新鮮な空気が流れ込んでくるように、徐々に変化が身に染みてくる感覚だ。
私はその変遷から、生、生育、絶頂、老衰、死といった、生命の原理を掬い取った。虚無と静寂から生命が誕生し、軽やかに舞い続ける 2 人。徐々に力強さが現れ始めたかと思うと失速し、やがて 2 人は静止して地に伏す。終演時には勅使川原の腕が新たな生命のようにそそり立っていた。

勅使川原のダンスには一貫して強い意思が感じられた。全ての動作が脳で決定され、筋肉に信号が送られ、動きが生まれダンスとなる。命令を下す脳、そして実行する肉体に分断が感じられ、正に究極の身体制御であった。序盤は笙の音に乗り、薄くて軽い帯状の何かと全身で戯れているような流麗なダンス。終盤は身体の部位から支配権を取り戻していくかのように、力強く開放的なダンス。後者のシーンでは、 幻なのか単純に血が溜まったからか、指先が赤く光って見えた。身体を極限まで稼働させ、死を前にして燃え上がるような生命の躍動が鮮烈に映った。

一方で佐東のダンスは、何かに突き動かされているようだった。取り憑かれ、自然と身体が動き出すような精神と肉体の融合があり、笙の音に乗るのではなく、彼女自身が空間を牽引している場面もあったように思う。
序盤の佐東には水の中で動くように肉体に負荷が与えられていた。四肢の先端までもが筋肉で緊張し、極限に調律された肉体がそこにあった。しばらくすると少しずつ肉体から力が抜けていき、穏やかな水の流れに沿うようになる。波に揺れるイソギンチャクを見ているようで心地良い。
そして終盤の激しいシーンでは、湧き上がる動力がそのまま空間に溢れ出すように踊り、舞台上に大きな変化をもたらしていった。

特筆すべきシーンは、2 人が屹立し、大きな扉の隙間から光が差し込むような照明のシーンだ。そこから先を覗き、光に手を差し伸べる。しかし光は掴めない。手の影が身体に落ち、自分自身に掴まれているようだ。
「老衰」を迎えた彼らは光り輝く向こう側へは行けず、「死」という絶対的な呪いから逃れることはできない。舞台は暗闇に包まれる。神秘的な空間で死に直面した2つの生命体。まるで壮大な叙事詩が描かれて いるような荘厳な空気が漂っていた。
照明が戻る。勅使川原は光を浴び、手で花が咲くような所作を見せた。それは次の世代に未来を託す祈りだろうか。2 人は膝を付き、上半身だけで踊る。やがて地に伏し動かなくなる。勅使川原は天高く腕を伸ばしたまま静止した。
だがまだ音は止まない。耳を澄まし笙の音を聞く。発芽した芽のように立つ勅使川原の腕と、響き渡る笙の音。それは春の到来のように晴れやかな空間だった。
やがて宮田は笙から口を外し、息を吐く音だけが響く。しばらくして舞台は終焉を迎えた。
永遠のように思われた舞台も、生命体の生涯も、終わりがあるというただ一つの真理の前にある。生れ落ちては、未来へと種を残し、死んでいく者たち。紡がれていく命。それを包み込む大いなる自然。『調べ』とは永遠のように繰り返される命の明滅そのものではないだろうか。

余談だが、舞台芸術の起源は神との交信だという説を聴いたことがある。音楽や舞踊によって人間の意志や願い、祈りを伝えていたと。
今では一般に開かれている雅楽が、平安時代では高貴な存在しか聴けなかったものであったように、今でこそ生活の一端になった舞台芸術は、太古の時代では神の儀式という崇高な体験であったのだ。その血脈は舞台の中に脈々と流れ続け、神秘の性質を残していた。3人の「呼吸家」たちが生み出した古代の息吹に、限りある生の躍動を感じるとともに、舞台芸術を体験するという行為が洗い直される上演であった。

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©Naoshi Hatori
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©Naoshi Hatori

「朽ちた蔓延る」鑑賞レビュー

エピソードの蓄積が遺跡を成し、テキストから空間が立ち上がる
戯曲の拡張性

竹澤久美

第18回 AAF戯曲賞受賞 山内晶作品『朽ちた蔓延る』の上演を観た。当日パンフレットが「遺跡ガイドブック」仕立てになっており「モジャモジャの仮面(マスク)」「口拍手」「正しいレリーフへの挨拶の仕方」「最盛期の町の風習」など図解入りで面白おかしい。COVID19以降、政府から提示された“新しい生活様式”を揶揄するように受け手のわたしたちにリーチする。この劇場空間に入ることで、ある種の振付が施され、私たち観客が旅行者であるという見立てのガイドブックである。

劇空間に入ると、遺跡の窪みを囲むように床に座る人々。発掘現場を想起させる。世代はバラバラ、特別な衣装をつけていないエキストラは一般公募だろうか。遺跡周辺に住む市民か観光客のどちらか。一周引いて距離をとり並べられた椅子に座る私たち観客もまずは同じ時空間に配置されている。劇本編は、登場人物ごとにエピソードが積み重なって進められていく。

演出の篠田千明に関して筆者は、「快快」パフォーマンスを視たことがあったので、集団制作での身体表現や映像等デジタルメディアとの合わせ技という期待はあった。篠田は今回のAAF戯曲賞の審査委員の1人であり、本作を最終選考するにあたり、自ら演出したいと手を挙げたのだとインタビュー記事で知る。しかし、山内が受賞のことばで「架空の遺跡を声と身体を使って建築したいとかんがえました」と述べているので、自らが演出するということも当然考えていたのであろう。戯曲のテキスト(公開PDF)を追いながら振り返ってみることにしよう。

9人の登場人物の1人称で構成され、9→8→7→6→5→4→3→2→1と順に場面が現れる。登場人物同士が絡み合うことのない芝居が続く。最後に出てくるのは此処での王様(とある権力者が砂漠にお墓と宮殿が混ざった建物をつくり、死ぬ)のモノローグ。このように、テキストの時点でシークエンス構造がある。日本語あるいは外国語がバグったような擬音。男優演じる歴史家の妻のシーンはエキセントリックで映画的な”鮮やかさ”がある。Nanangによるワヤン・クリ(インドネシアの影絵)は「墓泥棒」の物語を伝統的な手法とずらしながらもその“怖さ”が全体を引き締める。スクリーンに数時間前の登場人物が重なる。異なる言語や、時間、時代が容赦なく物理空間を撹乱し、観客を惑わせる。劇場空間なのにZOOM会議をハッキングされたような混沌さがあった。

生公演と映像配信のハイブリッド

今回、たまたま入り口の違う同じ遺跡(リアルな劇空間とオンライン映像空間)を観光したことになる。リアルな劇空間とは決まった時間内での一期一会で、すこしでも集中を欠いたら負けである。情報量の多さに戸惑う上演作品だった。ことばの使われ方は原作に忠実でありながら、映像を使った演出や美術への反映のみならず、この戯曲の拡張性にハッとした。遺跡とは、そこに物体があるのみならずエピソードの蓄積に謎めいた亡霊のような気配があり、私たちはそこに吸い込まれるのかと気づく。分解と再構築が可能ないわば建築設計的な考え方で戯曲が書かれていたとしたら、演出家によって異なる世界観が立ち上がるなりゆきは興味深い。後日配信された映像版は単なるアーカイヴではなく、新たに撮影されたシーンもあり、イントロのテキストや仮面フィルター(映り込んだ通行人や観客の肖像権をカバーする機能も兼ねている)など編集技術で可能なアドオンが施され、独自のコンテンツに仕上がっていた。

劇中の時間層、鑑賞後の時間層

亡霊、日本人旅行者、墓泥棒、歴史学者の妻、ヨーロッパ圏からきた異教徒、片言の客引き、墓の主など貧富入り乱れ、時系列もバラバラな混沌としたエピソードが層になっていて、その世界が順番に立ち上がっては消える、そんな構成だった。目の前の演者が何役か追えないままその情報量を持ち帰った。帰宅してフライヤーのアートワークを見ると3DCADと顔面石、「BACHIKAN」と読めそうで読めない文字列、その箱庭のような画を俯瞰する自分を自覚する。後日の映像配信では、さらに別次元で眺めることになったが、やはり劇空間での体験を旅の思い出のように観ていた自分がいた。時間層と言ってっみたが、「文化と指針が違う「遠近軸」も一緒に考えると世界はひろい」

亡霊や王のモノローグは誰にむけられているのか?

演出の篠田が近年、バンコクを拠点に活動しているという関係だろうか、キャスティングやセノグラフィーにインドネシアのカルチャーが入ってくる。「インドネシア○○島の三大遺跡で歴史のロマンに触れる」のような旅行会社の宣伝文句が似合いそうだ。呪文のように黒い床へ白いチョークで書かれた文字は、終演後に近づいて読みに行くと、散文詩かツイッター投稿のような他愛ないテキストや落書きにも見えた。墓の周辺に、権力者や労働者が存在した痕跡が層になっている。「遺跡」という痕跡。これを「建築」と呼んでいいのかと思うと面白くなってきた。篠田曰く「声がどこから聞こえるかで空間が成立する作り方をしているので、映像だとフラットになると予測。引きの画角で視覚によって聴覚を引き戻すことを心がけた。その作家ならではの切れない「エクリチュール」を保った」という(アフタートークより)。なるほど!それにしても、劇場空間でも映像を使う演出があり、芸文センターの外側にあるオアシス21から中継するなど、複数の空間をつなげていたし、戯曲というテキストの拡張性を思い知る演出だった。スマホ自撮り棒でどこかに「私」を配信する観光客の女子も、亡霊や王のモノローグと同列にみえなくもない。

戯曲の拡張性ということ

床に書かれている美術だったり、映像の字幕だったり、ことばの使われ方はほぼ原作に忠実ではあるものの、劇作家山内いわく、パステルカラーのつもりで書いたものが「極彩色なホラーに仕上がっていた」ということだそうだ。つまり、山内が意図した”人のセンシティブな部分””やわらかな部分”の中から「疑問と怒りの部分」が、演出家によって一層強調され、上演作品として原作者の想像を超えた世界観が立ち上がっていたというような裏話もアフタートークできくことができた。「建造物はできて栄えて死んで遺跡になる、エピソードの蓄積だけが意味もなく残る」そこをモチーフとする、と脚本家の山内は述べている。歴史学者の捏造した物語を正論としてしまっている説(歴史学者の妻のセリフより)は現実的にありそうだし、最近のニュースで、”ゆるい猫”のナスカ地上絵発見の報道があるが、見向きもされず埋もれているものがまだまだありそうだ。あるいはモラやポシャギのような民族手芸にみられる継承されながら言語にならない情報が、 人類の文化・文明を語ることもあるだろう。時空をテキストに起こすこと、さらに上演する事において戯曲の拡張性ということにハッとしたものの、譜面を再演したり音楽のトラッキングにも通じるかと思ったり、特に演劇を多く観ていたわけではない筆者にとって、理屈にならない共感がいくつも湧いてきた。まとまらない。

「常識は恒久的なものではなく誰かにぬりかえられているのか!」

とは、山内のコンセプト文にある言葉。この戯曲が書かれたのは今回の世界的パンデミック以前で、2019年の日本は平成から令和に変わる天皇制を振り返ったりジェンダーギャップのような慣習的な常識を疑ったりする年だったし、SNSを媒介に群衆を操ることも殺人をも可能にした事象もある。東京2021年以降を考える「TOKYO 2021」展もあった。しぐさの由来のように耳に残る「あたらしい生活様式」というフレーズ。以前の生活様式はもはや遺跡なのか、「今」が遺跡になるのか、「遺跡」ブームに火を付けられたかもしれない。あやふやな正夢を見返しているかのよう。



第18回AAF戯曲賞受賞記念公演

2020.11.7愛知県芸術劇場小ホール
2021.1.17までアーカイヴ配信
演出家・作家・出演者によるアフタートーク90分

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  (※無断転載を禁じます)